僕が漆に辿り着くまで、その2。

 

僕が美術に辿り着くまでを少し書きたいと思います。

僕は大学は芸術系に進学しましたが、高校は普通科です。ですから、同じ年に美術系の大学に進学した人は恐らく僕しかいません。進学校だったので、美術部すらほとんど部員がいませんでした。
僕の行った埼玉県立熊谷高校は埼玉県で2番目に古い高校です。埼玉では旧制中学が前身である高校はナンバースクールと言われ、まともな大学を目指すならそこに行くしか選択肢がありませんでした。それに、髪型とか服装などの校則や無意味な朝礼みたいなものがあるところに通う自信もありませんでした。そうするとナンバースクールしかないのです。旧制一中は浦和高校ですが、すでに兄がいたので、僕は熊谷高校を選びました。学区制が変わり、今では進学校とは言えないレベルになりましたが、僕の行っていたころは東大に10人くらいは受かっていました。僕の記憶が確かなら、僕の卒業した年の東大合格者数は11人でした。
僕は美術部に籍を置いていましたが、本気で活動していたというわけでもなく、かといって勉強熱心でもない平均的な高校生でした。高校2年生が終わるころ自分の進路についてのアンケートがあったのですが、明確な希望が書けず、その頃から自分の進路を真剣に考えるというノンキな人間でした。2年生の終わりの校内模試の成績は50番でした。第2次ベビーブームの最盛期で一学年500人の時期だったので、ちょうど上位1割くらいで、努力次第で何とか旧帝大くらいはいけるかも?というポジションでした。
ただ、勉強の延長線上に自分の好きなものが見えてくる予感もなく、選ぶなら美術系かな?という感じで進路を決めました。

当時の大学受験は熾烈を極めました。今の2倍以上の受験生がおり、国立大学はもとより、私大も相当な競争倍率でした。美大に至っては僕の受けたデザイン系は30~40倍程度だったと記憶しています。美術のような評価に主観が入る入試でその倍率は、“運”の要素も多分にあります。正確に言うと、運良く受かるということはないのですが、運悪く落ちるということはある、そんな感じでしょうか。どこまで絵が上手くなっても安心できない、気味の悪い受験でした。当然、多浪生も多く、2,3浪は当たり前の状況でした。

そんな状況の中、初めて塾に通うことになりました。塾と言っても美術予備校です。高校受験時も塾に行かせないという両親の謎な教育方針があり、自力で受験を乗り越えたのですが、さすがにこの状況は自力無理!と思い、予備校に行くことにしました。
予備校と言っても、学校が終わってからの夜間部だったので現役生ばかりで、そのレベルの低さに愕然としました。通うようになった日から、行くだけ無駄とは分かったものの、すぐに辞めると受講料払っただけみたいになるので、しばらくは通いながら半年でフェードアウトしました。ただその間の生活は、自宅が桶川だったので、桶川→熊谷→浦和→桶川という移動で、帰るのが夜10時、帰宅後も自宅で色彩構成、みたいな感じでとても疲れました。フェードアウトしてからは通学によるロスタイムが無くなり、ほとんどの時間を高校の美術室で一人でデッサンをしたりして過ごしました。
たった1年間の実技の勉強期間でしたが、努力の甲斐もあり、そこそこ上達しました。終わってみれば、筑波大学芸術専門学群のデザイン学科工業デザインコースと武蔵野美術大学の工芸工業デザイン学科に合格するという結果でした。自分で言うのもナンですが、工業デザインの分野では国立、私立の最難関大学に受かったので、そこそこ凄いと言えます。デザイン系で受験対策がかなり違う両大学に現役でダブル合格する人はかなり珍しいです。結果的に、進学校で2年生まででセンター入試を受けられるだけのペースで授業が進んでいたのが幸いしました。3年次は全く勉強せずに済みましたから。
どちらに進学するかは迷いませんでした。というより迷うという選択肢がありませんでした。一学年上に兄、一学年下に弟がいたので、必然的に国立大学になりました。

大学に進学してからは、工業デザインは自分が本当にやりたいことではないということにすぐに気付きました。何より才能がありませんでした。仮面浪人して東大でも目指そうかとも思ったのですが、すでに兄が東大に行っており、東大の入学後の進振りの苦労を目の当たりにしていたので、ただただやる気もなく筑波大学に在籍しているだけの楽な道を選択してしまいました。やる気のない人間は何をやっても駄目だと思うので、やらなくて良かったと、今は思います。
その後は専攻も変え、とにかく卒業だけはしようと、じっとしていました。当時は自分のことをバカげていると思いましたが、今考えれば最善の選択でした。勉強もしないのに大学に在籍していることに罪悪感もあったので、意を決して、親に中退したいと言ったことがあります。両親の答えは「卒業くらいしたら?」でした。今は僕自身が親になり、その時の親の優しさやその言葉の含蓄も十分に理解できます。でもその時はただ気分的に楽になったというだけで、とにかく自分のことしか見えませんでした。でももともと時間を無駄に出来ない性格なので、教職課程を取るなど、詰め込めるだけは詰め込みました。また、その間とても多くの本を読み、自分の適性について深く考えることが出来ました。大学時代で一生分自分自身を見つめました。その証拠に、その後とりあえず現在まではブレのない人生を歩めました。

 

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