若い頃(1999年から2001年頃)。その2

 

リニューアルに伴い、過去の記事を読んでいたら中途半端な記事があったので、続きを書いていきます。

26歳の春、教員採用試験以外では初めて就職の面接に行きました。CADなどコンピュータを使った設計や造形に興味があったので、その界隈の業種から選びました。また、新宿か東京までの定期券が欲しかったので、就職雑誌を買って、良さそうなところにいくつか電話しました。就職といっても将来は漆をするつもりだったので、腰掛けで申し訳ないと思いながら面接に向かったのを覚えています。
一件目は新宿のはずれにあるマンションをオフィスにした小さな会社でした。漆工芸をやっていることなども正直に話して、それほど長く勤務することはできない旨も伝えました。「3日以内には連絡する」と言われオフィスを後にしました。帰りの電車で、「こんなんでいいのかな」とか考えながら窓の外の景色を見ていたのを覚えています。昼間の都会はみんな忙しそうだなとか思ったような気がします。不思議と人生に対する不安はありませんでした。むしろ自由で楽しい感じがしました。

家に着いたらすぐに連絡が来て、「ウチ以外もどこか面接に行った?」→「いいえ、まだ行っていません。今、御社が採用してくださるなら御社に決めます」→「じゃぁ、明日から来て」、たったそれだけのやり取りで決まりました。

そんなこんなで建築図面や建築パースをを描き続ける日々が始まりました。来る日も来る日も図面を描き、ビルや道路や橋などのCGを作り続けました。当時は不良債権問題で日本中がパニックでした。建築業界も中堅ゼネコンはつぶれ、スーパーゼネコンもかなり経営危機に陥っていました。デフレで会社の近くの牛丼屋が一杯200円でした。僕は漆工芸のことしか興味がなかったですが、同僚は落ちまくっているゼネコン株買いまくっていました。私の会社は多くの会社と取引していたので、幸いにも経営不振というわけではありませんでした。僕もクビになっても、そこで踏ん切りをつけて漆をすれば良かったので、なんのプレッシャーもありませんでした。

しかしそんなある日「橋本君、しばらくT建設に行ってもらうよ。」と通達がありました。T建設は新宿西口に本社を構える日本屈指のスーパーゼネコンです。そこの本社ビルの46階の設計本部で手伝うよう言われました。以前にも何回か手伝いに行っていたのですが、経営不振で社員をどんどん減らして、付き合いのある小さな会社から人を外注する方針に切り替えており、僕も毎回酷い目にあっていました。終電に間に合わなかったり、休日勤務を強いられたり。そのくせ、昼食は京王プラザに行ったり、まだ仕事が終わっていないのに夕食は地下街でビールを飲んだりとか、社員の堕落も酷いものでした。ビールを飲みながら社員が話をしていました。「能力があるやつから辞めていく。俺はここでしか食っていけないから辞められない。」まさにその通り、良く分かっているなと思いました。分かっているだけ他の社員よりはマシかも。

参ったなと思いながらも数か月間、T建設に通い続けたのですが、このままいくと人生が漆から離れていくような気がしてきました。いつも暇な時は窓から筑波山を眺めました。筑波山の山頂には「晴れた日には新宿の高層ビルが見えます」という看板があり、だったらこっちからも筑波山が見えるはず、とか思いながら。筑波大学を出てから決意を新たに漆の勉強をしたのに、なぜ今ここにいるのか。眩暈がするくらい焦りを感じるようになってきていました。
その日の勤務が終わり、会社に電話しました。「社長、話があるのですが…。」「橋本君、じゃ、一緒に飯食おうよ。」
食事をしながら、会社を辞めることを言おうと話を切り出そうとしたら、社長の方から「お疲れさん、明日から会社に戻ってきなよ」と言われました。大体のことは察していたのだと思います。
その頃は、週4日の会社勤務以外にも、大学の教務助手と漆の修復、カルチャー教室の手伝いを同時にこなし、さらに自分の制作もするという、週休0日という過酷なスケジュールでした。もう辞めるしかないと思っていたのですが、在宅でもいいからとかそういう方向に話が行って、いろいろ話しているうちにそんなこんなで続けることになりました。
気づいてみたら、週3日半勤務で、週一くらいで会社に来る以外は在宅でいいという好条件を許してくれました。今思うと感謝しかありません。僕の人生の中で恩人と言える人は何人かいますが、この会社の社長はその中の一人です。
会社を辞めて以来会っていません。この文章を書いていて、とても懐かしく感じます。僕は元気です。今、こうして漆工芸家として活動しています。どこかでそれを知ってくれていたらいいなと思っています。

目次
閉じる